まだ生きているのに、もう泣いている ― 「予期悲嘆」という言葉
親の介護をしていて、ふと、こんな気持ちになったことはありませんか。
まだ、目の前に生きている。
息をしている。
手も、あたたかい。
それなのに、胸の奥が、喪服を着たように重い。
まるで、もう亡くしてしまったかのような、深い悲しみが、こみ上げてくる。
そして、こう思うのです。
「まだ生きているのに、こんなことを感じるなんて。私は、なんてひどい人間なんだろう」と。
もし、あなたがそう感じたことがあるなら。
この記事を、あなたに読んでほしいと思います。
その気持ちには、名前があります。
そして、それは、あなたが薄情だからではありません。
「悲しみ」は、亡くなったあとに来るものではない
私たちは、こう教わってきました。
大切な人を亡くしたとき、人は悲しむ、と。
お葬式があって、涙を流して、少しずつ、立ち直っていく。
悲しみとは、「失ったあと」に来るものだ、と。
でも、認知症の介護は、その順番を、静かに壊してしまいます。
海外の研究では、この現象に、はっきりとした名前がついています。
「Anticipatory Grief(予期悲嘆)」
日本語にすれば、「まだ失っていないのに、先に始まってしまう悲しみ」です。
これは、決して珍しいものではありません。
むしろ、認知症の家族を介護する人のあいだで、とてもありふれた、正常な反応だと分かっています。
海外の複数の研究が、同じことを指摘しています。
認知症の介護者が抱えるこの「予期悲嘆」は、介護の負担感や、うつ、不安と深く結びついていること。
そして、病気が進むほど、その悲しみは深くなっていくこと。
つまり、あなたが感じているその重さは、あなた一人のものではなく、世界中の介護者が、同じように抱えているものなのです。
なぜ、生きているのに悲しいのか ― 「あいまいな喪失」
では、なぜこんなことが起きるのでしょうか。
アメリカの心理学者、ポーリン・ボスという人が、この問いに、ひとつの答えを与えてくれました。
彼女が名づけたのは、「Ambiguous Loss(あいまいな喪失)」という概念です。
ボスは言います。
世の中には、二種類の「喪失」がある、と。
ひとつは、体はここにいないけれど、心はここにいる喪失。
たとえば、戦争で行方不明になった家族。
連絡は取れない。会えない。けれど、心のなかには、はっきりと生きている。
もうひとつは、その反対です。
体はここにいるのに、心が遠くへ行ってしまう喪失。
そして、認知症の介護は、まさにこの二つ目にあたる、とボスは言います。
お母さんは、そこにいる。
ごはんも食べる。手も握れる。
けれど、あなたのことを、もう「娘」だとは分からない。
昔、一緒に笑ったあの思い出を、共有できない。
体は、ここにある。でも、あなたの知っていたその人は、もういない。
この「ここにいる」と「もういない」が、同時に存在してしまう状態。
これを、ボスは「あいまいな喪失」と呼びました。
そして、彼女はこうも言っています。
これは、人間が経験する喪失のなかでも、もっともストレスの大きいものの一つだ、と。
なぜなら、私たちの悲しみは、「終わり」があって初めて、動き出すからです。
「お別れ」ができないという、つらさ
普通の別れには、区切りがあります。
亡くなったという、はっきりとした事実。
お葬式という、儀式。
「さようなら」を言う、瞬間。
その区切りがあるからこそ、私たちは泣き、そして、少しずつ前を向いていくことができます。
けれど、認知症の介護には、その区切りがありません。
昨日は、あなたの名前を呼んでくれた。
今日は、分からなくなっている。
明日は、また少し、呼んでくれるかもしれない。
「もう失った」とも言えず、「まだ大丈夫」とも言えない。
その、はっきりしない状態が、何年も続いていく。
ボスは、こう表現しました。
このとき人は、「希望」と「絶望」のあいだを、行ったり来たりするのだ、と。
期待して、裏切られて、また期待して。
この揺れが、あまりに長く続くと、人はやがて、感じることそのものに、疲れ果ててしまう。
だから、もしあなたが今、
「悲しいのか、つらいのか、自分でもよく分からない」
「何も感じなくなってきた気がする」
そう感じているとしても——それは、あなたの心が壊れたからではありません。
答えの出ない状態に、長く耐えてきた人の、自然な姿なのです。
ボスが教えてくれる、二つの「手放し方」
では、この「あいまいな喪失」と、どう付き合っていけばいいのでしょうか。
ボスは、たくさんの家族と向き合うなかで、いくつかのヒントを残してくれました。
そのなかから、日本の介護者にも届きそうな、二つをお伝えします。
ひとつめ ― 「両方とも本当」でいい
ボスが、もっとも大切にした考え方があります。
それは、矛盾する二つの気持ちを、同時に、心のなかに持っていい、ということです。
英語では「both-and thinking(両方思考)」と呼ばれます。
「お母さんは、もういない。でも、まだここにいる」
「あの人は、私を忘れた。でも、私はあの人を覚えている」
「悲しい。でも、まだ一緒にいられて、うれしい」
どちらか一方に、決めなくていいのです。
「まだ生きているんだから、悲しむのはおかしい」と、自分を責めなくていい。
「もう分からないんだから、期待するだけ無駄だ」と、心を閉じなくていい。
両方とも、本当です。
その矛盾を、矛盾のまま抱えることが、じつは、いちばん真実に近く、そして、いちばん心が楽になる道なのだ、とボスは言います。
ふたつめ ― 「終わり」を、求めなくていい
私たちは、「区切り(closure)」という言葉が好きです。
きちんとお別れをして、気持ちに整理をつけて、前に進む。
それが、正しい悲しみ方だと、思い込んでいます。
でも、ボスは、はっきりとこう言いきります。
「区切りなんて、幻想です」、と。
彼女は、自分のことを「悲嘆(グリーフ)の専門家」ではなく、「喪失(ロス)の専門家」だと言います。
そして、こう続けます。
答えの出ない喪失には、きれいな「終わり」など、来ないのだ、と。
だから、無理に気持ちを整理しようとしなくていい。
「まだ吹っ切れない自分」を、責めなくていい。
答えが出ないまま、揺れながら、それでも日々を生きていく。
それは、弱さではなく、答えのない状況を生き抜く、強さなのです。
それでも、介護は続いていく
ここで、正直なことも、書いておかなければなりません。
「あいまいな喪失」の何がいちばんつらいかというと、悲しみと介護が、同時にやってくることです。
心のなかで、その人を失っていく悲しみを抱えながら。
同じその手で、食事の介助をし、着替えを手伝い、夜中に何度も起こされる。
悲しむための時間さえ、与えられない。
海外の研究でも、この予期悲嘆がもっとも深くなるのは、長年連れ添った配偶者を、進行した段階で介護している人だと分かっています。
いちばん近くにいて、いちばん長く一緒にいた人ほど、その喪失は、深いのです。
だからこそ、お伝えしたいことがあります。
あなたが感じている悲しみは、介護から「逃げたい」気持ちとは、違います。
それは、その人を深く愛してきたことの、証です。
どうでもいい相手のことで、人は、こんなに悲しんだりしません。
その悲しみは、あなたが、ちゃんと愛してきた人間だという、何よりの証拠なのです。
この記事で、いちばん伝えたかったこと
長くなりました。
最後に、たったひとつだけ、覚えておいてほしいことを書きます。
まだ生きているのに、もう悲しいと感じるのは、正常なことです。
あなたは、薄情ではありません。
おかしくもありません。
心が弱いのでもありません。
あなたは、名前も知らないまま、世界中の介護者が経験してきた「予期悲嘆」という、深い悲しみのなかを、たった一人で歩いてきただけなのです。
その気持ちに、名前があると知ること。
それだけで、少しだけ、呼吸が楽になることがあります。
「ああ、これには名前があったのか」
「これを感じているのは、私だけじゃなかったのか」と。
もし、あなたが今、誰にも言えない悲しみを抱えているなら。
どうか、心のなかで、そっとつぶやいてみてください。
——これは、あいまいな喪失。
——これは、私が、あの人を、愛してきたということ。
その悲しみは、間違っていません。
そして、あなたは、一人ではありません。
参考にした「世界の知恵」
- ポーリン・ボス 『Loving Someone Who Has Dementia(『認知症の人を愛すること:曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』(誠信書房))』 ほか、「あいまいな喪失(Ambiguous Loss)」 に関する一連の研究
- 認知症介護者の 「予期悲嘆(Anticipatory Grief)」 に関する複数の学術研究(BMC Palliative Care, Palliative & Supportive Care ほか)
※この記事は、認知症介護における感情の理解を助けることを目的としています。強い抑うつや不安が続く場合は、我慢せず、お住まいの地域の地域包括支援センターや、医療機関にご相談ください。悲しみを分かち合うことは、逃げではなく、介護を続けるための大切な力になります。
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