世界から学ぶ #016:イギリス 「社会的処方」
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イギリス「社会全体で支えるディメンシア・フレンドリーと社会的処方」前回(#015)のコラムでは、医学誌『The Lancet(ランセット)』の最新報告書をもとに、認知症の進行や発症を防ぐための「修正可能な14のリスク要因」について解説しました。その中でも特に重要視されていたのが、高齢期の「社会的孤立」や「うつ病」の予防です。
では、世界に目を向けたとき、この社会的孤立を防ぎ、認知症になっても誰もが尊厳を持って暮らし続けられる社会を具体的にどうやって作っているのでしょうか?
第016回となる今回は、国家を挙げていち早く認知症対策に舵を切り、現代の認知症ケアの礎を築いてきた「認知症対策の先進国」、イギリスの革新的な取り組みにスポットを当てます。
1. 認知症ケアの原点:「その人らしさ」を真ん中に置く思想
現代の日本の介護現場でも広く導入されている「パーソン・センタード・ケア(Person-Centred Care)」という概念をご存知でしょうか。これは1980年代後半に、イギリスの心理学者トム・キットウッド(Tom Kitwood)が提唱した、認知症ケアのバイブルとも言える思想です。
それまでの医療・介護は、「認知症の症状」ばかりに目を向け、徘徊や大声を「困った行動」として抑え込もうとする傾向がありました。しかし、キットウッドは「症状を見るのではなく、その人(Person)を中心に据えよう」と訴えたのです。
認知症になっても、その人のこれまでの人生、こだわり、感情、そして「誰かと繋がりたい」「認められたい」という人間としての普遍的なニーズは失われません。BPSD(認知症の行動・心理症状)と呼ばれる行動は、実は「寂しい」「不安だ」「身体が痛いけれど上手く伝えられない」といった“満たされないニーズのサイン”であると捉え直します。
イギリスが世界に先駆けて示した「本人の視点に立つ」というこの原点は、現在のすべてのケアの土台となっています。
2. 街の誰もがサポーター:「ディメンシア・フレンドリー・コミュニティ(DFC)」
イギリスの素晴らしいところは、ケアの思想を介護・医療の専門職の中だけで終わらせず、社会全体のものへと広げた点にあります。その代表例が、英国認知症協会(Alzheimer's Society)が主導する「ディメンシア・フレンドリー・コミュニティ(DFC:認知症に優しい地域づくり)」です。
これは、日本の「認知症サポーター養成講座」のモデルにもなった取り組みですが、イギリスではさらに一歩踏み込んだ社会実装が進んでいます。
バスの運転手、スーパーのレジ係、銀行員、警察官、そして子どもたちまで、あらゆる市民が「ディメンシア・フレンズ(認知症の友人)」としての研修を受けます。それだけでなく、企業や商店街も一体となり、以下のような具体的な環境整備を行っています。
- スーパーマーケット: 床の模様が段差や穴に見えて恐怖を感じる当事者のために、床のデザインを一色で統一する。
- 銀行: 認知症の人が混乱しにくい、シンプルなデザインのATMや専用窓口を設ける。
- お買い物タイム: 店内のBGMや照明を落とし、静かで落ち着いて買い物ができる「スロー・ショッピング」の時間帯を設ける。
「認知症になったら外出を控える」のではなく、「認知症になっても安心して街に出かけられる」環境を、市民と企業が一緒になって作り出しているのです。
3. 薬の代わりに「つながり」を:国が推進する「社会的処方」
そして今、イギリスで最も注目されている先進的な仕組みが「社会的処方(Social Prescribing)」です。
これは、医師が患者に対して「お薬」を処方する代わりに、地域で行われている「コミュニティ活動」への参加を処方する仕組みです。主に初期の認知症の方や、軽度のうつ症状がある方、孤立しがちな高齢者を対象としています。
どうやって「処方」するの?
医療機関には、医師と地域の架け橋となる「リンクワーカー(Link Worker)」という専門職が配置されています。
医師から紹介を受けたリンクワーカーは、時間をかけて当事者の話に耳を傾け、「かつて好きだったこと」や「今やってみたいこと」を引き出します。そして、地域の以下のようなリソースへと直接繋ぎます。- 地元のコーラスグループや音楽サークル
- 美術館や博物館でのアート鑑賞・ワークショップ
- 地域のコミュニティガーデンでの園芸活動
前回のコラムでもお伝えした通り、「社会的孤立」は認知症の大きなリスク要因です。薬を飲むだけでは、孤独感や脳への刺激の減少は解決しません。しかし、社会的処方によって地域に自分の「居場所」ができ、役割が生まれ、笑顔が増えることで、認知症の進行を緩やかにしたり、介護者の負担を軽減したりする効果が科学的にも実証され始めています。
今日のまとめ:日本がイギリスから学べること日本でも「認知症基本法」が施行され、単に「お世話をする介護」から「地域共生社会の実現」へと大きく舵が切られています。
イギリスの取り組みから私たちが学べる最大のヒントは、「認知症ケアは、医療や介護従事者だけの仕事ではない」ということです。
街のスーパーの店員さんの温かい一言、バスの運転手さんのさりげないサポート、そして医師が薬の代わりに案内する地域のサークル活動。そうした「社会のあらゆる隙間に、認知症の人を受け入れる温かい仕組みと居場所があること」こそが、究極の認知症ケアなのかもしれません。私たちが暮らす街も、誰かにとっての「ディメンシア・フレンドリー・コミュニティ」になっているか、一人ひとりが少しだけ想像力を広げてみませんか?
世界から学ぶ世界には、同じ悩みに向き合いながら工夫を重ねている介護者がいます。
このシリーズでは、その知恵を日本の介護にも役立つ形で紹介していきます。次回:世界から学ぶ #017:誤解 ― ブルース・ウィリスの教訓
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トム・キットウッドが変えた認知症ケアの常識
―「病気を見る」から「人を見る」へ―
今回の記事では、
イギリスが認知症対策の先進国として、国を挙げて認知症に取り組んでいることをご紹介しました。しかし、その背景には、一人の心理学者が提唱した「認知症観」の大きな転換があります。
その人物こそ、トム・キットウッド(Tom Kitwood)です。
認知症は「脳の病気」だけでは説明できない
1990年代まで、認知症は主に医学的な視点で捉えられていました。
「脳の細胞が壊れるから、記憶も人格も失われていく。」
もちろん病気そのものは事実ですが、当時は症状ばかりに目が向けられ、「その人自身」に注目されることはあまりありませんでした。
そんな中、イギリスの心理学者トム・キットウッドは、まったく異なる問いを投げかけます。
「認知症になったからといって、その人らしさまで失われるのだろうか。」
「その人らしさ」は失われない
キットウッドは、人には誰もが Personhood(パーソンフッド)と呼ばれる人格的価値があると考えました。
認知症になっても、
- 人生の歴史
- 好きなもの
- 大切な思い出
- 家族との関係
- 性格や価値観
これらが突然消えてしまうわけではありません。
たとえ言葉でうまく表現できなくなっても、その人は今までと同じ「一人の人間」です。
だからこそ、
「認知症の人」ではなく、「認知症とともに生きる一人の人」として接することが大切だ
と彼は訴えました。
行動には必ず理由がある
キットウッドは、認知症の人が怒ったり、不安になったり、落ち着かなくなる原因のすべてを病気だけで説明することにも疑問を投げかけました。
例えば、
- 急かされる
- 子ども扱いされる
- 何度も否定される
- 本人を無視して家族だけと話す
こうした接し方は、不安や混乱をさらに強めてしまいます。
つまり、
症状だけではなく、周囲との関わり方も本人の状態に大きく影響する
ということを示したのです。
現在では、認知症ケアの現場で当たり前になりつつある考え方ですが、当時としては非常に画期的なものでした。
パーソン・センタード・ケア
こうした考えから生まれたのが、
パーソン・センタード・ケア(Person-Centred Care)
という理念です。
これは、
「何ができなくなったか」
ではなく、
「その人はどんな人生を歩み、何を大切にしてきた人なのか」
を中心に考えるケアです。
その人の生活歴や価値観、趣味、家族との関係を理解し、一人ひとりに合わせた支援を行います。
認知症そのものではなく、「その人」を中心に据える。
この考え方は現在、世界中の認知症ケアの基本理念となっています。
現在の認知症ケアにも受け継がれている
フランスで生まれたユマニチュードや、日本でも広がるパーソン・センタード・ケア、多くの認知症ケアの考え方には、キットウッドの思想が色濃く受け継がれています。
「その人らしさを尊重する」
「できないことではなく、できることに目を向ける」
そんな考え方は、世界中の介護現場に広がっています。
世界から学ぶこと
イギリスが認知症先進国と呼ばれる理由は、制度や研究だけではありません。
認知症の人を「支援の対象」としてではなく、
一人の人生を歩んできた大切な存在として尊重する。
この考え方を世界に示したことこそ、イギリスが認知症ケアに残した最も大きな功績なのかもしれません。