世界から学ぶ #013:病識の欠如 ― Anosognosia
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認知症の介護現場で、多くの家族やケアパーソンが最初に、そして最も深くぶつかる壁があります。
それが「病識の欠如(Anosognosia:アノソグノジア)」です。周囲が良かれと思ってサポートしようとしたり、病院へ連れて行こうとしたりすると、本人は激しい怒りを露わにします。
「俺を病気扱いするな!どこも悪くない!」
「私をボケ老人にする気か!騙そうとしたってダメだからね!」本人は本気で「どこも悪くない」と思っているため、周囲の親切が「自分を陥れようとする理不尽な攻撃」にしか見えないのです。ここで「そんなことないでしょ、現実を見て」と正論で返すと、お互いが傷つく泥沼のキャッチボールが始まってしまいます。
この「認めない本人」と「わからせたい周囲」の決定的な対立に対して、私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。そのヒントを、
アメリカ発の革新的なアプローチ「バリデーション療法(Validation Therapy)」と、その生みの親であるナオミ・フェイル氏の足跡から学びます。
1. ナオミ・フェイルの原体験:「なぜ彼らは叫ぶのか」
バリデーション療法の開発者であるナオミ・フェイル氏(1932〜2023)の思想の根底には、強烈な原体験があります。
彼女の父親は高齢者施設の施設長、母親はソーシャルワーカーでした。ナオミ氏は、なんと高齢者施設の中で生まれ、そこで入居者たちに囲まれて育ったのです。幼少期から高齢者たちのリアルな姿を日常として見ていた彼女は、1960年代、大人になって社会福祉のプロとして現場に戻ったとき、強い違和感を抱きます。
当時の医学や介護の主流は、認知症の混乱や拒絶を「脳の機能が壊れた患者の、意味のない異常行動」と片付け、力づくの説得や、薬物・身体拘束で大人しくさせようとしていました。
しかし、ナオミ氏の目には違って映りました。
「彼らの激しい怒りや叫び、徘徊には、すべて意味がある。それは、人生の最終段階において、奪われそうになっている自分の尊厳やアイデンティティ(存在価値)を、必死に守ろうとする魂の叫びなのだ」
そう気づいた彼女が提唱したのが、相手を「修正」するのではなく、その人の感情の「価値を認める(Validate)」というアプローチでした。
2. 【実際のケース】:「会社に行く!」と激昂する男性
バリデーションの思想が最も鮮烈に活きるのが、まさに「病識がなく、怒りを爆発させている」ケースです。実際の現場でよく起こる、ある男性のエピソードを見てみましょう。
【状況】
認知症が進行した80代の男性。夕方になると突然、「おい、もう時間だ!会社に行く!大切な取引先が待っているんだ!」とカバンに荷物を詰め始めます。ここで、私たちがやってしまいがちな「2つの失敗パターン」があります。
パターンA:正論で説得する
「お父さん、もう定年退職して20年も経ちますよ。外は暗いし会社なんてありません」
本人の反応: 「俺を嘘つき呼ばわりするな!病気扱いして閉じ込める気か!」とさらに激怒。
パターンB:その場しのぎの嘘をつく
「今日は日曜日だから会社はお休みですよ。明日行きましょう」
本人の反応: その場はしのげても、本人の頭の中の「タイムスリップ」は解決していないため、すぐに「じゃあ明日の準備をする」となり、根本的な解決になりません。
バリデーションによるアプローチバリデーションでは、彼の「会社に行く」という言葉の「事実」ではなく、その裏にある「自分はまだ社会の役に立てる存在だ(自尊心)」「家族を養う責任がある(義務感)」という『感情の真実』にフォーカスします。
- ステップ1:感情に同意する(目を合わせ、トーンを合わせる)
「大切な会議があるんですね。本当にお忙しい中、いつも家族のために責任を持って動いてくださってありがとうございます」
誰も自分を否定せず、自分の「責任感」を認めてくれたことで、男性の防衛本能(怒り)のスイッチがふっと緩みます。 - ステップ2:感情を言葉にして引き出す(過去の誇りへアクセス)
「あなたが若い頃から、ずっとその会社を支えてこられたんですか?」「どんなお仕事をされている時が、一番やりがいがありましたか?」 - 結果:
男性は自分のアイデンティティを認められた満足感から、過去の仕事の武勇伝を誇らしげに語り始めます。ひとしきり話し終え、お茶を飲む頃には心が満たされ、「よし、今日の仕事はこれくらいにしておくか」と、自ら落ち着きを取り戻し、ソファーに腰掛けました。
3. 世界から学ぶ:こちらの「正しさ」を手放すという知恵
「病気扱いするな!」という本人の言葉は、裏を返せば「私を一人の人間として尊重してくれ」という必死のメッセージです。
私たちが「現実の正しさ」や「病気という枠組み」にこだわりすぎると、目の前にいる「その人自身」が見えなくなってしまいます。
世界の先進的なケアが教えてくれるのは、「本人の病識(認識)を変えようとするのを諦め、こちらの『見方』と『関わり方』を変える」という、コペルニクス的転換です。
相手の世界に100%飛び込み、その感情を丸ごと受け止める。
「正しさ」を手放したとき、初めて認知症の介護は「壮絶な戦い」から「深い人間の対話」へと形を変えるのかもしれません。
世界から学ぶ世界には、同じ悩みに向き合いながら工夫を重ねている介護者がいます。
このシリーズでは、その知恵を日本の介護にも役立つ形で紹介していきます。次回:世界から学ぶ #014:共感 ― Over-validating
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