世界から学ぶ #020:予期悲嘆 ― Anticipatory Grief
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まだ生きているのに、もう泣いている ― 「予期悲嘆」という言葉
親の介護をしていて、ふと、こんな気持ちになったことはありませんか。
まだ、目の前に生きている。
息をしている。
手も、あたたかい。それなのに、胸の奥が、喪服を着たように重い。
まるで、もう亡くしてしまったかのような、深い悲しみが、こみ上げてくる。そして、こう思うのです。
「まだ生きているのに、こんなことを感じるなんて。私は、なんてひどい人間なんだろう」と。もし、あなたがそう感じたことがあるなら。
この記事を、あなたに読んでほしいと思います。その気持ちには、名前があります。
そして、それは、あなたが薄情だからではありません。
「悲しみ」は、亡くなったあとに来るものではない
私たちは、こう教わってきました。
大切な人を亡くしたとき、人は悲しむ、と。お葬式があって、涙を流して、少しずつ、立ち直っていく。
悲しみとは、「失ったあと」に来るものだ、と。でも、認知症の介護は、その順番を、静かに壊してしまいます。
海外の研究では、この現象に、はっきりとした名前がついています。
「Anticipatory Grief(予期悲嘆)」
日本語にすれば、「まだ失っていないのに、先に始まってしまう悲しみ」です。これは、決して珍しいものではありません。
むしろ、認知症の家族を介護する人のあいだで、とてもありふれた、正常な反応だと分かっています。海外の複数の研究が、同じことを指摘しています。
認知症の介護者が抱えるこの「予期悲嘆」は、介護の負担感や、うつ、不安と深く結びついていること。
そして、病気が進むほど、その悲しみは深くなっていくこと。つまり、あなたが感じているその重さは、あなた一人のものではなく、世界中の介護者が、同じように抱えているものなのです。
なぜ、生きているのに悲しいのか ― 「あいまいな喪失」
では、なぜこんなことが起きるのでしょうか。
アメリカの心理学者、ポーリン・ボスという人が、この問いに、ひとつの答えを与えてくれました。
彼女が名づけたのは、「Ambiguous Loss(あいまいな喪失)」という概念です。ボスは言います。
世の中には、二種類の「喪失」がある、と。ひとつは、体はここにいないけれど、心はここにいる喪失。
たとえば、戦争で行方不明になった家族。
連絡は取れない。会えない。けれど、心のなかには、はっきりと生きている。もうひとつは、その反対です。
体はここにいるのに、心が遠くへ行ってしまう喪失。そして、認知症の介護は、まさにこの二つ目にあたる、とボスは言います。
お母さんは、そこにいる。
ごはんも食べる。手も握れる。
けれど、あなたのことを、もう「娘」だとは分からない。
昔、一緒に笑ったあの思い出を、共有できない。体は、ここにある。でも、あなたの知っていたその人は、もういない。
この「ここにいる」と「もういない」が、同時に存在してしまう状態。
これを、ボスは「あいまいな喪失」と呼びました。そして、彼女はこうも言っています。
これは、人間が経験する喪失のなかでも、もっともストレスの大きいものの一つだ、と。なぜなら、私たちの悲しみは、「終わり」があって初めて、動き出すからです。
「お別れ」ができないという、つらさ
普通の別れには、区切りがあります。
亡くなったという、はっきりとした事実。
お葬式という、儀式。
「さようなら」を言う、瞬間。その区切りがあるからこそ、私たちは泣き、そして、少しずつ前を向いていくことができます。
けれど、認知症の介護には、その区切りがありません。
昨日は、あなたの名前を呼んでくれた。
今日は、分からなくなっている。
明日は、また少し、呼んでくれるかもしれない。「もう失った」とも言えず、「まだ大丈夫」とも言えない。
その、はっきりしない状態が、何年も続いていく。ボスは、こう表現しました。
このとき人は、「希望」と「絶望」のあいだを、行ったり来たりするのだ、と。期待して、裏切られて、また期待して。
この揺れが、あまりに長く続くと、人はやがて、感じることそのものに、疲れ果ててしまう。だから、もしあなたが今、
「悲しいのか、つらいのか、自分でもよく分からない」
「何も感じなくなってきた気がする」
そう感じているとしても——それは、あなたの心が壊れたからではありません。答えの出ない状態に、長く耐えてきた人の、自然な姿なのです。
ボスが教えてくれる、二つの「手放し方」
では、この「あいまいな喪失」と、どう付き合っていけばいいのでしょうか。
ボスは、たくさんの家族と向き合うなかで、いくつかのヒントを残してくれました。
そのなかから、日本の介護者にも届きそうな、二つをお伝えします。ひとつめ ― 「両方とも本当」でいい
ボスが、もっとも大切にした考え方があります。
それは、矛盾する二つの気持ちを、同時に、心のなかに持っていい、ということです。英語では「both-and thinking(両方思考)」と呼ばれます。
「お母さんは、もういない。でも、まだここにいる」
「あの人は、私を忘れた。でも、私はあの人を覚えている」
「悲しい。でも、まだ一緒にいられて、うれしい」どちらか一方に、決めなくていいのです。
「まだ生きているんだから、悲しむのはおかしい」と、自分を責めなくていい。
「もう分からないんだから、期待するだけ無駄だ」と、心を閉じなくていい。両方とも、本当です。
その矛盾を、矛盾のまま抱えることが、じつは、いちばん真実に近く、そして、いちばん心が楽になる道なのだ、とボスは言います。ふたつめ ― 「終わり」を、求めなくていい
私たちは、「区切り(closure)」という言葉が好きです。
きちんとお別れをして、気持ちに整理をつけて、前に進む。
それが、正しい悲しみ方だと、思い込んでいます。でも、ボスは、はっきりとこう言いきります。
「区切りなんて、幻想です」、と。彼女は、自分のことを「悲嘆(グリーフ)の専門家」ではなく、「喪失(ロス)の専門家」だと言います。
そして、こう続けます。
答えの出ない喪失には、きれいな「終わり」など、来ないのだ、と。だから、無理に気持ちを整理しようとしなくていい。
「まだ吹っ切れない自分」を、責めなくていい。答えが出ないまま、揺れながら、それでも日々を生きていく。
それは、弱さではなく、答えのない状況を生き抜く、強さなのです。
それでも、介護は続いていく
ここで、正直なことも、書いておかなければなりません。
「あいまいな喪失」の何がいちばんつらいかというと、悲しみと介護が、同時にやってくることです。
心のなかで、その人を失っていく悲しみを抱えながら。
同じその手で、食事の介助をし、着替えを手伝い、夜中に何度も起こされる。悲しむための時間さえ、与えられない。
海外の研究でも、この予期悲嘆がもっとも深くなるのは、長年連れ添った配偶者を、進行した段階で介護している人だと分かっています。
いちばん近くにいて、いちばん長く一緒にいた人ほど、その喪失は、深いのです。だからこそ、お伝えしたいことがあります。
あなたが感じている悲しみは、介護から「逃げたい」気持ちとは、違います。
それは、その人を深く愛してきたことの、証です。
どうでもいい相手のことで、人は、こんなに悲しんだりしません。その悲しみは、あなたが、ちゃんと愛してきた人間だという、何よりの証拠なのです。
この記事で、いちばん伝えたかったこと
長くなりました。
最後に、たったひとつだけ、覚えておいてほしいことを書きます。まだ生きているのに、もう悲しいと感じるのは、正常なことです。
あなたは、薄情ではありません。
おかしくもありません。
心が弱いのでもありません。あなたは、名前も知らないまま、世界中の介護者が経験してきた「予期悲嘆」という、深い悲しみのなかを、たった一人で歩いてきただけなのです。
その気持ちに、名前があると知ること。
それだけで、少しだけ、呼吸が楽になることがあります。「ああ、これには名前があったのか」
「これを感じているのは、私だけじゃなかったのか」と。もし、あなたが今、誰にも言えない悲しみを抱えているなら。
どうか、心のなかで、そっとつぶやいてみてください。——これは、あいまいな喪失。
——これは、私が、あの人を、愛してきたということ。その悲しみは、間違っていません。
そして、あなたは、一人ではありません。
参考にした「世界の知恵」
- ポーリン・ボス 『Loving Someone Who Has Dementia(『認知症の人を愛すること:曖昧な喪失と悲しみに立ち向かうために』(誠信書房))』 ほか、「あいまいな喪失(Ambiguous Loss)」 に関する一連の研究
- 認知症介護者の 「予期悲嘆(Anticipatory Grief)」 に関する複数の学術研究(BMC Palliative Care, Palliative & Supportive Care ほか)
※この記事は、認知症介護における感情の理解を助けることを目的としています。強い抑うつや不安が続く場合は、我慢せず、お住まいの地域の地域包括支援センターや、医療機関にご相談ください。悲しみを分かち合うことは、逃げではなく、介護を続けるための大切な力になります。
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